実の家族に虐げられ、希望も見えぬ日々を送っていた王女アイリス。彼女はある日、百年の盟約を果たすための生贄として、恐ろしいと噂される「冥府の国」へ送られることが決まってしまう。 それは事実上の死刑宣告であり、アイリスは深い絶望に突き落とされる。 しかし、死をも覚悟して辿り着いた冥府の国で彼女を待っていたのは、冷酷な運命ではなかった。そこで出会ったのは、美しくも謎に包まれた冥府の国の王子。彼から注がれるのは、アイリスが生まれて初めて知る、戸惑うほどに甘く、そして激しい「予想外の溺愛」だった──。 これは、虐げられた王女が絶望の淵から、冥府の王子に愛され、本当の幸せを見つけていく物語。
View More暁闇の名残りを色濃く映す石造りの部屋に、一条の朝日が音もなく差し込んできた。
古びた窓の隙間から射し込むその光は、微かな塵を黄金の粒子のように煌めかせながら漂い、そこに息づく少女の寝顔を、慈しむかのように淡く浮かび上がらせる。 「ん……」 重い瞼を微かに震わせ、少女──アイリスはゆっくりと目を開いた。夜明け前の深閑とした静寂が、彼女をそっと包み込む。 それは、過酷な一日がその容赦ない幕を開ける前の、ほんの束の間だけ彼女に許された聖域。 しかし、その硝子細工のように脆い平穏は、長くは続かないことを彼女は知っていた。 「……今日も、頑張ろう」 ほとんど吐息に近いその呟きは、決意というよりは己に課せられた宿命への諦念に似ていた。 アイリスは鉛のように重い四肢を、古びた人形のようにぎこちなく動かし、寝台から身を起こす。 「寝台」とは名ばかりの、硬い藁を薄布で包んだだけの粗末な代物であり、毎夜その上で眠るたびに、華奢な背には鈍い痛みが刻まれる。 「……」 蜘蛛の巣のように細かく亀裂の走る鏡の前にアイリスが佇むと、齢十六とは到底信じがたいほど痛々しく痩せこけた少女の影が揺らめいた。 手入れが行き届いているとはお世辞にも言えない長い黒髪は、生命の艶めきを失い、所々で力なく途切れてしまっている。 しかし、その痛ましいほど痩身な姿の中にあって、大きな双眸だけは、闇夜に秘やかに瞬く星のごとく、濁ることのない清冽な光を宿していた。 その星彩を湛えた瞳は、かつて「王国に咲き誇る至宝の花」とまで謳われた亡き母から受け継いだ、何よりも貴い形見……。 「おはようございます、お母様」 アイリスは、そう祈りにも似た囁きを紡ぎながら、常にその白皙のうなじに下げている小さなロケットペンダントへ、そっと唇を寄せた。 そこに大切に収められているのは、慈愛に満ちた微笑みを湛える母の小さな肖像画。 それは、十年の歳月が流れようとも決して色褪せることのない、母と娘を繋ぐ唯一無二の絆。 「今日も……わたくし、精一杯努めます。ですけれど……お母様。本当に、このようなわたくしにも、いつか陽だまりのような温かな幸せが訪れる日は来るのでしょうか。わたくしのような者に、幸せなんて……」 声はか細く震え、言葉の終わりは吐息と共に頼りなく宙に消えた。 「……だめ。弱音なんて……決して口にしちゃだめよ、アイリス」 心の内でか細く呟き、彼女は亡き母の言葉を胸に刻みつける。 『どのような暗闇の淵に立たされようとも、心の窓から希望という名の灯火を決して手放してはなりません』 かつて聞いた母の言葉が、脳裏に過る 深く、静かに息を吸い込み、僅かに震える心を叱咤するように鎮めると、アイリスはもはや慣れきった手つきで、己の身分を象徴するかのような、くすんだ色合いの粗末な召使いの衣服にゆっくりと袖を通した。 王女として遇され、陽光の下で微笑んでいた日々など、もはや彼女にとっては手の届かぬ夢幻の彼方に霞む、はかない記憶の欠片でしかなかった。そうして重く冷たい扉を押し開き、薄暗く寒々しい石造りの廊下へ一歩踏み出した、まさにその刹那。
甲高く、そして聞く者の神経をわざと逆撫でするかのような不快極まりない声が、アイリスの鼓膜を不躾に、そして鋭く震わせた。 「あらあら、これはこれは。『藁かぶり姫』様が、ようやく埃っぽい寝床から這い出していらしたのかしら?」 その刺々しくも甘ったるい声の主を確かめようと、アイリスが音もなくゆるりと振り返れば、そこには豪奢という言葉をそのまま形にしたような装いに、華奢な身を包んだ、アイリスとほぼ同年の少女が、唇に嘲りを浮かべて悠然と佇んでいた。そのあまりに虚無的な公爵の言葉に、アイリスたちはただ立ち尽くす。彼の言う通りなら、自分たちのこの行動も想いも、全てが無意味だということになってしまう。最初に沈黙を破ったのは、意外にもカイルだった。「おいおい、公爵様よ。あんたが百年後忘れるかどうかなんて、俺たちの知ったこっちゃねえな。姫様はあんたの許可が必要だから、ここに来た。俺たちは王子に命じられたから、ここに来た。ただそれだけだ。意味があろうがなかろうが、やるべきことをやる。それじゃ不満かい」 あまりに単純明快な答えに、公爵は初めてアイリスたちをまともに見た気がした。 「ただ今を生きるか。それも一つの形だろう。だがいずれ悟るだろう、無意味な繰り返しだとな」「……意味がないなんてそんな悲しいことをおっしゃらないでくださいまし」 今度はリリーが言う。「私達は確かに今ここにおります。例え死んでいても、その心も、私達のこの気持ちも決して、無意味ではございません」「感情か」公爵は虚ろに呟く。「それこそが最も早く色褪せる幻」二人の言葉は、公爵のその分厚い虚無の壁を崩せない。そしてジェームズが、静かに、しかし力強く続けた。「公爵様。失礼ながら申し上げます。我々には王子様への忠誠という使命がございます。使命を果たし、この国の歴史を紡ぐこと。それこそが我々の存在意義。決して無意味ではございません」「使命」公爵は静かに笑う。「それもまた、いずれ忘れ去られる虚飾に過ぎん」カイルの現実。リリーの感情。ジェームズの忠誠。そのどれもが、公爵のその分厚い虚無の壁を崩すことはできない。アイリスは、そのやり取りをただ何も言えずに見つめていた。彼らの言葉は、決して公爵の心には届いていないのだと悟りながら。「では、公爵様。わたしに許可は、いただけないということでしょ
カイルが放ったその一言に、アイリスたちの身体が完全に硬直した。──か……彼は今なんて言ったのだろう。この領地を治める大公爵を前にして、今なんて……?アイリスの顔からさっと血の気が引いていく。しかし当のカイルは、全く気にした様子もなく、さらに言葉を続けた。「いやマジですごいぜ。ここまで見事に陰鬱で、救いのない場所を作り上げるとはな。どんな精神してりゃ、こんなもんが出来上がるんだか。あぁ、勘違いしないでくれよ、褒めてるんだぜ?一秒だって住みたくはねえけど」不敬な言葉が最後まで紡がれた瞬間だった。「カイル!貴様!」「公爵様になんてことを!」ジェームズとリリーが、文字通り飛びかかった。ジェームズが背後からカイルの腕を羽交い絞めにし、リリーがその半透明の手で彼の口を力任せに塞ぐ。「むぐ……!?な、なにしやが……んむぅ~!」二人は必死の形相で、これ以上カイルが何かを口走るのを防ごうとしていた。アイリスは顔面蒼白になりながら、慌てて公爵の前へと進み出た。そしてその場で、土下座でもするのではないかというほど、深く頭を下げる。「大変申し訳ございません公爵様!私の従者が数々の無礼を……!どうかお許しください!」ジェームズとリリーも、カイルを押さえつけたまま、必死にそれに続いた。「誠に申し訳ございません!」「この馬鹿は後で私達がしっかりと躾け直しますので!」相手は冥府の国の公爵なのだ。その魔力は、単なる死者のそれとは違う。世界を形作る原初の力を持ち、悠久の時を生きた大公爵。自分たちなど、その気になれば指先一つで塵に還されてしまうだろう。アイリスはそう思いなが
そこに現れた青年──オルフェウス公爵は、まるで人の形をした哀しみの結晶そのものだった。その髪は永い冬の最後の雪のようにどこまでも白く、そして清らか。その肌は血の気というものを全く感じさせない、磨き上げられた大理石のよう。あまりにも完璧に整った顔立ちは、この世のどんな芸術品よりも美しく、そして神々しい。「……っ!」アイリスは人ならざる美貌に、ただ心を奪われた。しかし、その美しい貌を見つめているうちに、彼女は気づいてしまう。彼の瞳の奥に渦巻いている、深い絶望と、魂の渇きに。彼はただ美しいだけではない。その存在そのものが、一つの壮大な悲劇であると、アイリスは直感的に理解した。やがて、竪琴を奏でていた白く長い指が、ぴたりと止まる。そして彼はゆっくりと、物悲しい瞳をアイリスへと向けた。その唇からこぼれ落ちたのは、もう何百年も誰とも話していないかのような掠れた、そしてどこか虚ろな声だった。「王子から話は聞いている。ようこそわたくしの城へ……生者の娘よ」その時、それまで静かにしていたバディがアイリスの足元から、ふわりと駆け出した。そして、何故かオルフェウス公の足元へとじゃれつくようにくるくると楽しげに回り始める。やがてバディは、満足したかのように再びアイリスの足元へと戻ってくると、そのまま床に安心しきったように、ぺたりと寝そべってしまった。(もしかしてバディは……わたしをここまで導いてくれたのかしら?)アイリスは不思議な光景に、そう思わずにはいられなかった。彼女は意を決して、公爵へと向き直る。そして、生者の国で遠い昔に学んだ作法に則り、純白のドレスの裾をそっと持ち上げ、恭しく一礼した。「オルフェウス公爵。何のご挨拶もなく、かくも突然御前をお騒がせいたしますこと、何卒お許しくださいませ」凛とした声で、アイリスは言葉を続ける。
アイリスは無数に響く未完の旋律の中から、その一つの音色だけを追いかけた。セ間違いない。これは城門の前でも聞いた、母が歌ってくれたあの歌だ。「この曲だけ……しっかり聞こえますね」他の旋律が生まれては泡のように消える中で、この歌だけが公爵の心の奥底でかろうじて形を保っているのだろう。その優しいメロディにアイリスは、思わず口ずさみそうになる。歌は美しいクライマックスへと向かっていく。だがその一番美しい旋律の直前で、やはりその曲もぷつりと消えてしまった。「あっ……」どうしてここでやめてしまうのだろう。ここからが、一番素敵なところなのに。アイリスは名残惜しさに、小さく溜息をついた。その時だった。「……?」くるくると楽しげに踊っていたバディが、不意にその動きを止めた。彼は何かに気づいたかのように鼻をひくひくとさせると、鋭く吠える。「わんわん!」そして次の瞬間バディは、矢のような速さで音楽室から、飛び出してしまった。「あ……バディ!?」アイリスは驚いて叫ぶ。そして、彼を追いかけようと夢中でその後を追った。ジェームズたちの制止の声も、彼女の耳にはもう届いていなかった。「姫様!お一人で動かれると危険ですぞ!お待ちください!」ジェームズの制止の声が後ろから聞こえる。しかしアイリスは止まらない。青い光の塊となったバディの姿だけを、夢中で追いかけた。「わぉーん!」「バディ、待って……!」彼女が駆け抜けるのは、永い時が止まったかのような、物悲しい回廊だった。壁にかけられた巨大なタペストリーは色褪
城門の先にあったのは、静かで薄暗い回廊だった。高い天井からは魂の粒子がちらちらと、雪のように舞い落ちている。その床の上を、半透明の青白いネズミたちが、音もなく滑るように走っていく。「……ネズミまで、幽霊なのね」バディは幽霊ネズミたちに気づくと、くんと鼻を鳴らしたが追いかけようとはしない。彼らが自分と同じ、この国の住人だと分かっているのだ。その回廊の壁には、数多くの美しい肖像画が飾られている。しかしアイリスが、その前を通り過ぎようとした時だった。「あ……絵が……?」彼女が指差す先では、それまで鮮やかだったはずの肖像画の色彩が、まるで涙で滲むようにゆっくりと輪郭を失い、色褪せていく。描かれた貴婦人の微笑みが、みるみるうちに消え去り、やがてただの灰色の染みへと変わってしまった。「消えていく……どうして……?」アイリスの驚愕の声にジェームズが静かに答えた。「うーむ……これは、公爵様の心象風景か……?しかし形を保てない辺り、思い出が失われているのだろうか」「へっ感傷的なこった。思い出も満足に持てねえのかね」カイルが興味なさそうに、そう吐き捨てる。リリーはそんなカイルを軽く睨むと、アイリスに寄り添った。「オルフェウス公爵は遥かに長い時を生きる死者の重鎮。それだけ長く生きれば、忘れることの一つや二つ、ありますわ」リリーは色を失っていく肖像画を見つめながら静かに言った。「オルフェウス公は遥かに永い時を生きる死者の国の重鎮です。それだけ永く生きれば、忘れてしまう思い出の一つや二つ……いえ数え切れぬほどおありなのでしょう」リリーの言
開かれた城門の先にあったのは、巨大な中庭だった。しかしそこに咲いているのは、命ある花ではない。庭一面に置かれているのは……無数の美しい石像たちだった。 「まあ……」 リリーが息を呑む。 「ここにあるのは全て石像ですわ」 それらは皆、何かを嘆くかのように悲しい表情を浮かべていた。天を仰ぎ、涙を流す者。愛しい誰かを抱きしめるように、うずくまる者。その全てがあまりに精巧で、まるで今にも動き出し、嗚咽を漏らしそうだった。「はっ……随分と趣味の良い庭だね。公爵様とやらは、人の不幸を眺めるのがお好きなのかね」カイルが吐き捨てるように言った。「カイル、不敬だ」ジェームズが低い声で彼を諌める。「これはおそらく、この地に還ってきた魂たちの最後の姿を、公爵が石で形作ったもの……」アイリスは言葉もなく、この光景を見つめていた。石像たちの声なき悲しみが、彼女の心に直接響いてくるかのようだった。そうして、一行は物言わぬ石像たちの間を縫うようにして、庭園の中央へと進んだ。そこにはひときわ大きく、そしてひときわ美しい一人の女性の石像が、静かに立っていた。「この石像……なんか、他のと違いますわね」リリーが思わず呟く。確かに彼女の言う通り、流れるようなドレスも繊細な指先の表情も、まるで生きているかのようだ。だが……。「顔が……ない?」顔だけが、滑らかなままだった。あるはずの、瞳も鼻も唇もそこには何もない。ただの石のままだった。その異様な光景にカイルが呆れたように吐き捨
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